南極の海は
生きものの宝庫


大越 和加=文
text by waka okoshi
 2000年11月14日、晩秋の曇天の中、砕氷艦「しらせ」は東京湾の晴海埠頭を出航しました。世紀を越える、南極地域観測の出発です。私は、第42次日本南極地域観測隊の一員として、5ヶ月間、海の生物の調査・研究をする機会に恵まれました。海の中の脊椎をもっていない、いわゆる下等な分類群である無脊椎動物を専門に調べてきました。それらは下等ではありますが、驚くほど巧みにそして多様な生きかたをしています。  生きものを寄せつけない厳しい南極大陸の氷一色の世界とは対照的に、南極海の氷の下にはこれら無脊椎動物がたくさん棲んでいます。陸上では気温がマイナス数10℃にも下がりますが、海の中では水温がマイナス二℃までしか下がりません。そこには、突き刺さるようなガラス質の長いトゲをもつ体長50cmを越えるガラスカイメン、ゆうらりゆらりと海水の流れに身を任せるホヤにウミシダ(ヒトデの仲間)、大輪のような触手を広げるケヤリムシ(ゴカイの仲間)、薄い貝殻をもつツキヒガイやバイなどの貝類たち、小ぶりなウニの大群・・・。海の底は心躍る未知の生きものたちでいっぱいです。
 今回は、低温の南極海で、どのような生物がどのぐらいの速さで成長しているのか、どのぐらいの寿命を持っているのか、どのように繁殖・発生しているのかなど、まだまだ明らかになっていない生態を調べることが目的でした。海の生態系を考える上で、これらの生物がどのように生きているのかを知ることは、とても大切なことです。
 海洋観測は、常に天候と海況に大きく左右されます。南極海では、さらに氷という最も予測の難しい、厄介で危険な要素が加わります。あっという間に海面が氷で覆われて生物の採集ができなくなることも珍しくありません。「しらせ」で航行中は、氷で覆われていない海面を探し、ビームトロールという幅2メートルの鉄枠の後方に網の付いている漁具で深さ千メートルまでの海底の生物を採集しました。

氷上から穴を開けて海底の生物を採集する。

 12月30日、「しらせ」は南極大陸に接岸しました。接岸中は、氷上に電動ドリルなどで穴を開け、そこから氷の下の海中にいろいろな観測機器を投入して観測を行いました。今回は、氷の厚さが3メートルほどの地点を観測点とすることを余儀なくされ、1つの穴をあけるのに何日もかかりました。もうひとつは、ヘリコプターでリュツオ・ホルム湾の岩がごつごつとした露岩地帯まで移動し、ベースキャンプを設営し、連日海底の生物を調査しました。そこではトイレ、風呂、電気などのない、文明とはかけ離れた不自由な生活を強いられます。もちろん、零下の世界です。私たち観測隊以外は誰もいません。野外での観測は、非情なまでに自分たちの体力と知力、そして五感だけが頼りでした。
 南極海で採集された生物を「しらせ」に持ち帰り、私は飼育実験を開始しました。「しらせ水族館」のオープンです。途中で1度、飼育室の温度がマイナス十℃以下になり、生物も凍りついてしまいました。ところが驚いたことに、氷が融けると、なんと魚類を除いてほとんどの生物がまた動き出したのです。南極の海底に棲む生物の驚くべき特性のひとつを垣間見た、貴重な経験でした。
 荒涼とした白い南極大陸の海に広がる、豊かな生きものたちの謎解きが今、始まろうとしています。

しらせをバックに氷上観測

おおこし わか

1960年生まれ
現職:東北大学大学院
   農学研究科教務職員
専門:トライボロジー

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