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東北大学ひと語録

《国際法も法である。実務に役に立つ法律家でありたい 》

遠藤 章

小田 滋(おだ・しげる)

プロフィール

1924年(大正13)札幌市生まれ。父の台北帝国大学医学部教授奉職に伴い台湾へ。旧制台北高校を経て東京帝国大学法学部卒。25歳にて東北大学の講師着任直後にロックフェラー財団による戦後の米国留学の第一期生となる。留学中に、将来は「航行のための海」から「資源の海」になるとの独自の認識に達し、そのことをイェール大学ロースクール法学博士論文にて論究。欧米でも戦後初の海洋法に関するものと言われ、「海洋法の小田」の世界的名声の先駆になる。門下生に日本学士院賞受賞の杉原高嶺、水上千之など俊才多彩。国際司法裁判所の判事在職27年は、前身である常設国際司法裁判所を含め史上最長記録。文化功労者、瑞宝大綬章受章。日本学士院会員、東北大学名誉教授、仙台市名誉市民など。


国際司法裁判所の判事を27年務めた、世界の「海洋法の小田」

 「憧れの先生が、世界のために活躍し、大きな功績を挙げ、東北大学のある仙台に戻られた」
オランダ・ハーグでの、国際司法裁判所判事の要職を在任記録最長の3期27年も選任され続けた小田滋。その「帰仙」の報に接し、かつて東北大学法学部で小田の講義を受講し、ここ仙台に暮す私は、心から嬉しく、誇らしく思いました。

 私が法学部の専門課程に在籍したのは1967年(昭和42)からの2年間です。当時の法学部には日本を代表する泰斗、俊秀の先生方が綺羅(きら)、星のごとく揃っていました。
 中でも異彩を放っていたのが小田でした。とにかくダンディで、貴公子を思わせる端麗な容姿です。外交交渉において日本の外務省が頼りにする明晰な頭脳と強い意志、戦略的な洞察力の持ち主でもありました。

 こう表現すると、一見近寄り難い人物の印象を与えるかもしれません。
 ところが、違うのです。

 講義での小田は率直で、快活、学生への優しさにあふれていました。海外出張がたいへん多いためか休講が重なり、そのための補講や連続講義が不定期に行われます。私は、何はさておいても出席。小田の講義はもちろんその立ち居ふるまいまでをも楽しみにしていたものでした。
 私たち学生は、講義や小田の発する雰囲気から、国の利害が衝突する世界の生の様相や外交交渉の現場を垣間見る、そんな喜びも得ていたのでしょう。

 講義には、小田を仙台に訪ねてきた現役の外務省官僚や国際法学者が講話者として飛び入り参加することもたびたびでした。学生たちに世界を舞台に活躍する人物とじかに接する機会を与えたい。こうした思いがあっての試みであったに違いありません。

 当時の小田は、「海洋法の小田」の世界的な評価を名実ともに決定的なものにする『北海大陸棚事件』の西ドイツ側の弁護人として、歴史に残る獅子奮迅の活躍をしていたまさにそのときに当たります。

 北海には豊富な海底油田が眠っていました。北海の海底の境界の線引きを巡り北海周辺各国の利害が衝突、紛争となります。ついに、国際司法裁判所に、西ドイツ対オランダ・デンマーク間の提訴が行われ、その国際裁判での西ドイツ側弁護人を依頼されたのが小田でした。

 裁判は、外交や国際法の専門家から西ドイツ側が圧倒的に不利と見られていました。西欧諸国間の国際裁判の弁護人に日本人が選任されるなど、当時では誰しもが耳を疑う出来事です。小田自身も、当初は西ドイツ政府の真意を測りかね、単なる相談役程度の役割と思っていたようです。ところが、審理開廷の間際、小田は自分が、わずか二名の西ドイツ側訴訟代理人の一人をまかされ、口頭弁論の各論担当であることが分かります。

 それからの数日の間に、小田は、口頭弁論でもっとも具体的で核心をなす主張、各論の弁論準備に没頭しました。後に小田は、このときほど命を削る思いで取り組んだ日々はないと述懐しています。見事な銀髪の小田ですが、その白髪が目立つようになったのはこのときからではないか、こう小田自身が語っているほどです。

 相手方のオランダ・デンマーク側は、すでに成立していた「大陸棚条約」の規定のもとになった「等距離線」理論に基づく「中間線」での線引きを審理にて主張しました。
 この方式では、海岸が内側に湾曲する西ドイツには不利です。しかも、その方式による境界を延長していくと、地図上に明らかに奇妙な結果、不衡平を示すことになりました。

 そこで小田は、「等距離方式」は、決して慣習国際法になってはいないとの事実をまず論証、裁判における基準は「衡平な基準」が大前提であるべきと指摘します。その上で、小田の創案になる有名な「ファサード理論」に基づく「公正かつ衡平な分割」を主張したのでした。
 「ファサード(FACADE・もともとは仏語)」とは、「建物の正面」の意味。沿岸のファサードから北海の中心部に向かって境界線を引く方式の衡平さと公正さを主張したのでした。

 この考えは、東北大学の国際政治学の祖川(そがわ)武夫教授、英米法の望月礼二郎教授などとの話し合いから示唆を受け、仙台近郊の秋保温泉などの宿にこもって展開を考えた小田の創見になるものです。この新たな理論が、西ドイツを勝訴に導く決定的な弁論になりました。  
 一躍「日本に海洋法の小田あり」の令名が、世界に知れ渡ることになります。
 この考え方は、その後に一般に通用する「大陸の自然の延長」の概念になるものです。

 小田は、日本の学界において戦後もっとも海外で縦横無尽に活躍した大学教授ではないでしょうか。東北大学一筋の在職25年間に海外出張は70回余り。後のころには、外交旅券で飛び回り、日本政府を代表して外交交渉に当たることもたびたびでした。
 海洋資源の重要性を世界に先駆けて洞察した小田は、特に海国日本の立場の国益を担い、国際法の実務法律家として、日本国民のためのまさに役に立つ貴重な存在となります。

 学者らしからぬ型破りの行動派の小田でしたが、有能で個性あふれる若き小田に期待し、おおらかに、あたたかく見守った法学部と東北大学。「実用忘れざる」の東北大学精神を実際に体現したかのように小田は、冒頭の自身の言葉そのものの、実務で、世界に、日本に貢献した法律家となり、さらに、東北大学の、そして日本の、世界に誇る国際法学者となったのです。

文中敬称略、ルビ・カッコ内補注筆者。お子様などご家族にもお見せいただければ幸いです。
当シリーズへの、ご意見、ご要望をお待ちいたします。

主な参考資料
▽『海洋法二十五年』 小田滋著 有斐閣 1981年▽『海洋法の歴史と展望 小田滋先生還暦記念』 編集代表 山本草二・杉原高嶺 有斐閣 1986年▽『東北大学法学部同窓会 会報 第31号』東北大学法学部同窓会 小田滋著「私にとっての東北大学」 2004年▽『東北大学法学部同窓会 会報 第35号』東北大学法学部同窓会 植木俊哉著「文化功労者受章を祝して」 2008年▽『学び究めて(15)第2部 実学の系譜7 法学の山並み(下)新分野へ挑戦、脈々と』河北新報2007年2月12日掲載▽『国際法と共に歩んだ六〇年―学者として裁判官として』 小田滋著 東信堂 2009年▽『日本の100人』 日本経済新聞社 1986年




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