特集|モデル生物を使ったゲノム研究 ゲノムを安定に保つしくみの欠損は老化、がん化を促進する

榎本 武美=文
text by Takemi Enomoto

 
遺伝子の本体はDNAですが、このDNAはさまざまな原因により傷害を受けています。遺伝情報を正確に伝えるためには、この傷害を修復するだけでなく、
遺伝子の本体であるDNAを正確に複製し、娘細胞に正確に分配する必要があります。
これらの過程に欠陥があると、老化が促進され、がんになる可能性が高まります。


ゲノムが不安定になる病気

 ゲノムとは本来「1つの生物がもつ全ての遺伝子のセット」と定義されていましたが、最近では、「1つの生物がもつ全DNA」と解釈されるようになってきました。したがって、ここでは、ゲノムという言葉を遺伝子の本体であるDNAと同じ意味で使っています。  
 遺伝情報を担うのはDNAですが、実際に細胞のなかでさまざまな働きをするのはタンパク質で、DNAにはタンパク質の設計図が書き込まれています。この遺伝情報を担うDNAは安定していると思われがちですが、紫外線、放射線、環境中の化学物質、また、細胞が活動することにより発生する活性酸素などによりさまざまな傷害を受けています。したがって、生物はゲノムを安定に保つために、これらの傷害を修復するためのさまざまなしくみを備えています。さらに、遺伝情報を正確に伝えるためには、傷害を修復するだけでなく、遺伝子の本体であるDNAを正確に複製し、複製したDNAを正確に子孫の細胞に分配する必要があります。
 がんは、遺伝子の遺伝情報に狂いが生じることによりタンパク質の働きに変調をきたし、細胞の増殖のコントロールが効かなくなることによって起こる遺伝子の病気です。したがって、DNAの傷害を修復するしくみが壊れるとがんになりやすくなります。例えば、色素性乾皮症というヒトの病気では、DNAに紫外線が当たった時に生じるDNAの傷害をうまく修復できないため、高い頻度で皮膚がんがおきます。
 私たちは、ウエルナー症候群、ブルーム症候群、と呼ばれる病気を研究しています。ウエルナー症候群の患者さんは、思春期あたりまでは健常人とあまり変わりませんが、その後、白髪、白内障といった老化症状を示し、さらに糖尿病、骨粗鬆症、動脈硬化、がんなどを発症するといわれています。一方、ブルーム症候群の患者さんでは、光線過敏性の色素沈着、発育不全、男性の不妊、免疫不全がみられ、さまざまながんが高率に発生します。これらの病気は、一つの遺伝子が変化し、それを基にして作られてくるタンパク質の機能が欠損することにより起こることがわかっています。これらの患者さん由来の細胞では、どちらもDNAの修復というより、DNAの複製になんらかの欠損があることが知られています。
 それでは、欠損することで生じるこれらの病気の原因となる遺伝子は、どのようなタンパク質の設計図なのでしょうか?次に、これらのタンパク質と、私たちが行っている研究について簡単に紹介します。

モデル生物を使ってヒトの細胞のしくみを知る

 細胞の中で起きる基本的な現象の理解は、大腸菌というモデル生物を使って調べることにより大きく進んだという歴史的な経緯があります。ところで、ウエルナー症候群やブルーム症候群の原因となる遺伝子はどちらも、大腸菌のRecQというタンパク質の設計図に似ています。余談ですが、RecQという名前の由来は、RecはRecombination、つまり組換えという英語の略で、DNAの組換えに関わるタンパク質で、発見者が九州大学の先生であったため、遊びごころでRecのあとにQが付きました。
 ヒトの細胞には、この大腸菌のRecQに似たタンパク質の遺伝子が五つあり、ブルーム症候群の原因遺伝子、ウエルナー症候群の原因遺伝子はそれぞれ、2番目と3番目に見つかった遺伝子です。1番目の遺伝子を発見したのは私たちでしたので、ウエルナー症候群やブルーム症候群も研究することにしました。現在までのところ、私たちの発見した一番目の遺伝子については、ヒトの病気との関連はわかっていません。
 私たちはヒトの病気の研究をしていますが、実際に研究材料として使っているのは、酵母やニワトリの細胞で、ほとんどヒトの細胞は使いません。酵母とは、酒やパンを作るために使う酵母菌です。酵母を使うと非常に簡単に目的の遺伝子を破壊することができ、また、変異させることもできます。また、私たちの使っているニワトリの細胞は非常に特殊な細胞で、この細胞は、今まで知られている動物細胞のなかで最も遺伝子に細工のしやすい細胞です。この細胞を使うと、簡単にウエルナー症候群やブルーム症候群のモデル細胞を作ることができます。ただし、どんなに細工がしやすいといっても酵母ほどではありませんので、2つの細胞を目的に応じて使い分けています。
 酵母にはRecQタンパク質の遺伝子は一つしかありません。この遺伝子を破壊した酵母では、DNAの組換えの頻度があがり、細胞の寿命が短縮します。細胞の寿命の短縮はウエルナー症候群の患者さんの細胞の性質に対応します。また、DNAの組換えの頻度の増加はブルーム症候群の患者さんの細胞の染色体の特徴(図1)です。したがって、RecQ遺伝子を破壊した酵母はウエルナー症候群とブルーム症候群の両方のモデル細胞ということになります。酵母を用いることにより、簡単にいろいろな解析ができることから、酵母のRecQがどのような経路で働いているかということを知ることができます。ただし、酵母を使っていては、ウエルナー症候群のRecQの機能なのか、ブルーム症候群のRecQの機能なのか区別がつきません。そこで、ニワトリの細胞の登場ということになります。
 このようにして、酵母やニワトリの細胞を使って研究することにより、ブルーム症候群のRecQについては、DNAの複製の際に、DNAの傷害を回避する過程で働くとともに、複製の最終段階で、複製したDNAを分離する過程で働くことがわかりました(図2)。したがって、ブルーム症候群の細胞では、傷害の回避がうまくいかなかったり、複製したDNAの分離がうまくいかず、ゲノムが不安定になり、がんになりやすくなると考えられます。
健常人の細胞の染色体   ブルーム症候群患者の細胞染色体

図1
DNAは細胞分裂期に入ると棒状の染色体を形成する。複製した姉妹の染色体を特殊な処理をして染め分けることにより、姉妹染色体(DNA)間で起こった組換えを調べることができる。ブルーム症候群患者由来の細胞では高頻度に組換えが起こっていることがわかる。



図2 A

図2
A DNAの複製中の模式図
この図は、DNA複製のための鋳型となる鎖上に傷害()があると、傷害のない鎖の方に乗り換えて複製が行われ、傷害のあるところを通過すると再び元の鋳型を使って複製が継続されることを示している。この過程にブルーム症候群のRecQ(BLM)が関与していることがわかった。
 
図2 B


B DNAの複製の最終段階の模式図
この図はDNA複製終了の直前から複製が終了して姉妹のDNAが分離するところを示している。ブルーム症候群のRecQ(BLM)はこの分離の過程にも関与していることがわかった。

基礎研究は役に立つ

 最近、線虫やショウジョウバエといったモデル生物を使った研究により、長寿に関わる遺伝子が発見されました。この遺伝子から作られるタンパク質の働きを促進するような化合物を探して、老化を遅らせる薬を作ろうとする試みがなされています。
 また、酵母、ウニやカエルの卵、あるいは培養細胞を使った長い研究の積み重ねにより、細胞がDNAを複製し、その複製したDNAを娘細胞に分配するしくみがわかってきました。それとともに、がん細胞ではそれらの過程のどこが、おかしくなっているのかも少しずつわかるようになり、最近では、このがん細胞と正常細胞の違いをねらった抗がん薬を作る努力がなされるようになりました。このような抗がん薬ができれば、副作用が大きく軽減されることになります。
 酵母、ウニやカエルの卵を使った研究は非常に基礎的な研究で、抗がん薬をつくろうという研究ではありませんでしたが、結果的には、非常に重要な知見を提供しました。直ぐに役に立つ研究も必要ですが、このように、一見役に立ちそうにない基礎的な研究が、将来、非常に役に立つ可能性があります。基礎的な研究を育てる環境が日本の科学のなかに根付くことを願って、このお話を終えることにします。




えのもと たけみ

1947年生まれ
東北大学大学院薬学研究科教授
専門:分子細胞生物学
http://www.pharm.tohoku.ac.jp/~idenshi/idenshi-j.html


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