―なつかしい思い出を礎に― 細谷 仁憲
 私が入学したのは1966(昭和41)年でした。栃木県からやって来た私の仙台に対する印象は、それまで漠然と抱いていた東北に対するイメージとは違っていました。思いの外温暖な気候で、広い道路が碁盤の目の様に整然と通り大きなビルが林立する近代的な都会であり、他方、緑、山、川、海等のきれいで豊かな自然も街の中あるいは直ぐ近郊に在り、魅力ある程好い大きさの中核都市でした。この魅力は40年以上経った今も基本的に変っていません。  大学の最初の2年間は、全学部の学生が学ぶ教養課程で、キャンパスは川内でした。進駐軍のキャンプ跡地で、中心街にこんなに近い所での広大な緑の芝生とそこに白ペンキ塗りの講義棟や研究棟が多数点在する風景は、とても開放感があり好きでした。部活の方は、元来図画には少々自信があって、油絵を描けるようになりたいという単純な動機で美術部に入りました。部員は全学部にわたり、個性ある人物が集まりました。2年生になってマネージャーをやることになりました。私も他の部員も、絵を描くよりも一端の芸術論などを駄弁っていた時間の方がはるかに多かったものでした。夏の三陸縦断と男鹿・十和田湖・八甲田のキャンプ、在仙大学合同美術展、・・・今はなつかしい思い出です。
 専門課程に入ると、我が歯学部は、私が2回生ですから創設間もない学部で、当時は医学部のキャンパス内で土地も建物も借りたものでした。学部長には、当初本川弘一第12代学長・医学部長が兼任していた時期がありましたが、間もなく東京医科歯科大学から赴任された荒谷教授が専任として就かれて、実質的な本学部の基礎造りを担われました。荒谷学部長体制の下で掲げられた教育理念・方針は、「未完成教育」であるという認識を持つこと、個々の患者にその時代の最善の医療は何かを考え提供できる様自己研鑽を永続していく「考える歯科医」になること、一本一本の歯を口腔全体との関係で把える「口腔単位」の診断と治療をすることでした。これらは既成の歯科医師養成教育に対するアンチテーゼであり、新しい歯科医師の養成への意欲と情熱が伝わり、共感を覚えたものです。
 母校も社会状況と共に変わり、現在は大学院の重点化がされ、独立行政法人化されました。我が学部に対しては、東北大学の一翼を担うものとして、今後一層、全国および世界にも発信できる高度先進、あるいは地域歯科医療に関わる研究に力を入れてほしいと願います。また、高度な歯科医療が提供できる臨床歯科医師の養成機能、歯科医療の進歩に即した社会人歯科医師の再教育機能、地域歯科医療の高次医療の拠点機能などの充実・強化も願うところです。そして、宮城県および東北地方における研究・教育・臨床の拠点機関となり、地域の歯科医療・保健・福祉の更なる向上に寄与されること、また日本の歯科医学・医療をリードするトップランナーになられることを期待しています。


INFORMATION in '07 Autumn

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