アルツハイマー病治療薬開発の新戦略
大泉 康=文
text by Yasushi Ohizumi

アルツハイマー病とその治療薬

 本格的な高齢社会を迎え、アルツハイマー病等の認知症の治療薬の開発が社会的な要請となっています。アルツハイマー病になると、脳の萎縮、神経細胞、特に記憶や学習機能において中心的役割を果す海馬のコリン作動性神経細胞の変性脱落、老人斑、アミロイドβペプチド(A―β)の沈着などが見られ、記憶・学習障害が起こります。この主たる原因としてA―βの沈着が考えられています。現在、アルツハイマー病治療薬としては、脳のコリン作動性神経の機能を活性化させる目的で、アセチルコリン分解酵素阻害薬が日本を含め世界中で使われています。しかし残念なことに、この薬物を用いても、一時的に症状が改善されますが、根本的に病気を治すこともその進行を完全に止めることもできないのが実状です。
 一方、神経の分化および生存維持に関わる神経成長因子(NGF)の体内における合成の低下が中枢神経疾患の発症の要因であると考えられてきました。
 そのため、アルツハイマー病治療薬として、NGFの応用が期待されてきました。しかし、NGFはタンパク質のため、患者に投与すると、深刻な拒絶反応などの副作用が起ったため、新たな治療薬の開発が求められています。
 そこで、私たちはアルツハイマー病の薬物開発研究の新しい戦略として、
 @天然界から経口あるいは注射による投与が可能な低分子性の記憶障害改善作用
 ANGFと類似した活性
 B脳の神経特にコリン作動神経の再生活性
 CA―βの沈着阻害活性
以上4つの条件を持った、原因療法となりうる化合物の探索研究を進めました。
 私たちは、健康維持にとって有益であるといわれている「果物」に着目し、それらのさまざまな成分の作用を詳しく調べた結果、温州みかんの皮(陳皮)の成分F―1(特許申請中)が、これら4つの条件を満たした新しいタイプのアルツハイマー病の予防薬あるいは治療薬として有望なことを発見しました。

果実成分F―1の記憶障害改善作用

 F―1の記憶障害改善作用は、ラットによる図に示した方法を用いて調べました。すなわち、八本のアームのうち4本のアームの先端部に好物の餌を置き、全ての餌を取り終えるまでに要した時間の測定を行います。評価法として参照記憶エラー数(餌を置いていないアームを選択した回数)と作業記憶エラー数(一度選択したアームを再度選択した回数)を測定します。参照記憶は長期の記憶に、作業記憶は短期の記憶に関与します。A―βの持続的な脳室内投与により作製したアルツハイマー病モデルラットにF―1を投与すると、記憶障害が顕著に改善されることが明らかとなりました。

 一方、脳において嗅いの情報の伝達に重要な役割を果している「嗅球」の機能の異状とアルツハイマー病の発症との間には密接な関連があると言われています。この嗅球を除去したマウスは、脳のコリン作動性神経の変性を伴う記憶障害モデル動物となります。嗅球を除去後、F―1を1週間連続腹腔内投与しますと、記憶障害が顕著に改善されました。また、組織化学的実験を行った結果、嗅球除去により海馬のコリン作動性神経が変性・脱落しますが、興味深いことにF―1によりそれが再生することが判りました。

F―1の薬効のメカニズム

 ラット海馬に対するF―1の影響を調べてみますと、F―1により遊離するアセチルコリン量が上昇し、コリン作動性神経の機能が活性化されていることが判りました。従って、F―1による記憶障害改善のメカニズムのひとつとして、コリン作動性神経のシナプスにおける神経伝達の促進が関わっていると考えられます。
 次に、神経細胞のモデル細胞であるPC12D細胞を用いて、詳しいF―1の作用メカニズムの解析を行いました。その結果、F―1は細胞情報伝達に関わっている特定の酸素を活性化することにより、神経突起の伸展を誘導することが明らかとなりました。
 さらに、脳におけるシナプス形成、神経突起の伸展あるいはA―βの蓄積の制御に重要な役割を果している糖脂質の一種である「ガングリオシド」の生合成とA―βの蓄積との関連性を解析してみました。その結果、F―1が海馬のガングリオシドの生合成を促進させて、細胞膜におけるその組成を変化させることにより、A―βの蓄積を抑制することが判りました。
 これまで述べた結果から、F―1はユニークな作用メカニズムを持つ全く新しいタイプのアルツハイマー病予防薬あるいは治療薬となると期待されています。また、F―1はみかんに含まれる食品成分ですので、この研究成果により、機能性食品などを開発する道が拓かれ、アルツハイマー病の予防および治療に貢献すると注目されています。


おおいずみ やすし

1942年生まれ
現職:東北大学大学院薬学研究科 教授
専門:天然薬物学

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