特集 芸術からの視点

美術における人間像の東西

田 中 英 道=文

たなか ひでみち

1942年生まれ

東北大学文学部教授

専門:美学西洋美術史

 東西の歴史は戦争や距離によって人々を往々にして遠ざけるが、芸術は時間、空間を越えて容易に接近させる。芸術が人間自体の表現であるだけに、東西の人間の相互理解にとって欠かせない世界をもっている。そこには同じ人間、同じ精神があらわされており、その共通性とともに多様性によってわたしたちは人間理解を一層深めさせるのだ。

ミュロン「円盤投げ」(ローマ模刻)ローマ古代美術館

西洋彫刻が告げる精神の変遷

 美術の世界においては、同じ肉体そのものの表現が東西古今で異なっていることが興味深い。例えば紀元前五世紀のギリシャの人間表現においては、肉体が肯定的に創造され、その精神はあくまで「カロカガティア」という言葉であらわされる。この言葉は「善」や「美」という意味ではない。たしかにその意味は含むのだが、さらに「適切」さ、というものがあり、肉体がその機能を十全に発揮されてこそ、その肉体が美しいのだ、という認識である。したがって例えばミュロンの『円盤投げ』という名高い彫像を見ても、その筋肉の力が見事に発揮されて、その姿が美しく見えるのであり、決して姿態そのものを逞しく見せているわけではない。オリンピア神殿の『アポロ』像を見ても、その姿はあくまで普通の男性像の晴朗さであり、その勝利を誇っているわけではない。

 それに対して、十六世紀イタリアのミケランジェロの彫刻はどうであろう。すでにキリスト教の教えが、人間の肉体の「罪」を教えており、同じ裸体でもそれ自身を肯定的にあらわしていない。精神のみが信仰によって救われるのであり、肉体による「罪」は克服されなければならない。例えば彼の名高い「ダヴィテ」像であっても、それは敵に挑む、勇壮な姿ではない。彼はたしかに巨人ゴリアテを石で打とうとする若々しい姿をしている。しかし彼の顔をよく見てみれば、そこには深い皺が走り、戦いの苦悩を見て取れる。このような表情は決してギリシャ彫刻では見られないものである。

 そして西洋ではキリストの磔刑像のなかにこそ、このキリスト教彫刻の典型をみることが出来る。彼は痩せこけ苦しんでいる。槍で突かれ、足と手には釘を打たれて、血を出している。それこそ地上の生々しい肉体の姿であり、精神だけが救われることを示しているのだ。彼は人間のすべての「罪」を贖って死んでゆくのである。

ミケランジェロ「ダヴィデ」

フィレンツェ・アカデミア美術館

東洋の仏像が表す西洋との共通性

 一方東洋ではどうであろう。13世紀の定慶の『金剛力士』像(奈良、興福寺)を見てみよう。その緊張した姿は、怒りに満ちている。「怒り」とは仏教でも、それは肯定されるものではない。しかし彼は仏に対する「悪」に対して怒っているのであり、その感情表現そのものには、仏に味方するものだけがもつ肉体への肯定がある。したがってこれを見るものには、人間の肉体とその感情への、ギリシャ彫刻と同じ肯定の精神を読み取れるのである。

 これは「忿怒」像といって、「不動明王」像を始めとして、「四天王」像や「十二神将」像など、仏教の脇侍像に一貫した感情表現をともなう形象である。これが「悪」に対する、こらしめの像である、という認識で見られているが、しかし素直にそのままみれば、これは人間の「怒り」を表した世界の美術史でもめずらしい像なのである。普通こうした形相は西洋では「悪魔」と見なされるが、ここでは決してその悪魔性があらわされているわけではない。人間の「怒り」でさえそのまま肯定される感情なのだ、といってさえいるようだ。その意味ではギリシャの像と通じるところもある。

 仏像では一般に中心にある「釈迦如来像」が慈悲の表情を見せて、人々はそれを礼拝する。しかし一旦、芸術の像として見なおすとき、脇仏こそ、作家たちがその技量を自由に示している像として、その優秀さに驚くのである。宗教の時代が去った近代 は人々にそのような眼を与えた。

 西洋と東洋は初めて、芸術という視点でこそ、比較することが可能になる。

それはあくまで人間像という赤裸々な視点からなのである。

定慶「金剛力士」

奈良・興福寺