魯迅の仙台、私の仙台、今の仙台
 ―百年前、五十年前、そして今
Message from OB

OBからのメッセージ
私の中の「東北大」


黒木 登志夫=文

 私が東北大学に入学したのは、1956年4月ですから、もう半世紀も前のことになります。当時、東京から仙台に行くのには、数時間はかかったと思います。仙台に行く日、汽車の中で読むようにと、太宰治の『惜別―医学徒の頃の魯迅―』という本を父が渡してくれました。それから50年もの間、何回も引っ越しをしたり、外国で生活したにもかかわらず、この粗末な印刷の本は、私の手元に大事にとってあります(写真)。最近になって気がついたのですが、この本は1945年9月1日印刷、同年9月5日発行の初版本なのです。終戦後15日後にこのような本が印刷され出版されたことに、いま改めて驚いています。
 あるいは読んだ方もいると思いますが、この小説は、中国の偉大な作家、魯迅が仙台の医学校で送った若き日々を書いたものです。魯迅が仙台に留学していたのは、今から100年少し前、1904年から翌5年にかけてです。ちょうど、日露戦争の戦勝で日本中が沸き立っている時でした。日本人の民族意識の高揚が中国人への蔑視となって魯迅に重くのしかかり、彼は医学をやめて、作家になることを決意するに至るのです。しかし、そのような中で、仙台医学専門学校・解剖学の藤野厳九郎先生が寄せた好意は、魯迅にとって終生忘れ得ないものでした。日本語がまだおぼつかない魯迅のノートを授業のたびに、赤インクで添削してくれたのです。仙台を去ることを決意した魯迅に、藤野先生は「惜別」と書いた自分の写真を贈ります。魯迅はこの写真を机の前に貼って終生手放すことがありませんでした。
 魯迅自身も藤野先生のことを『藤野先生』という小説に書いています。そのなかで、「夜ごと、仕事に飽きて怠けたくなるとき、藤野先生の顔を眺めやると、たちまち私は良心に従い、勇気を与えられる」と書いています。魯迅がいかに藤野先生を敬愛していたかは、魯迅選集には何をおいても『藤野先生』だけは入れるようにと指示したことからも伺い知ることができるでしょう。 医学部の学生時代、私は先生方からすばらしい教育を受けました。教室で先生方が黒板に書かれた文字や絵、臨床講義のシーンは今でも鮮明に覚えています。森鴎外の孫に当たる解剖学の森助教授のお宅でご馳走になったことも、忘れられない思い出です。仙台の街の人は学生をずいぶん大切に扱ってくれました。時には、それに甘えていたずらをしたりしましたが、大目に見てくれました。
 すべてが能率よく進行し、人々が忙しく働き、個人主義が確立した現在、すべてが100年前、50年前とはずいぶん違ってしまったように思えます。しかし、学問と学問を学ぶ人を大切にする大学と街は、100年前の魯迅の時代、50年前の私が仙台で過ごした日々と同じように、きっと時代を超えて、これからも受け継がれていくことでしょう。




くろき としお

1936年生まれ
東北大学医学部医学科卒
国立大学法人 岐阜大学学長


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