津波災害は繰り返す

箕浦 幸治=文
text by Koji Minoura

 
 今から3500年前、エーゲ海で巨大な津波が発生し、これによる災害はクレタ文化圏に 大きな衝撃を与えたとされています。いくつもの文明が興亡した後の現在でも、それが土地 の言い伝えとなって残されています。我が国でも、各地に津波災害が伝承され、惨禍は教訓 として語り継がれています。陸奥国府に津波が襲来したとする9世紀後葉の記録が残されて おり、この歴史上の津波を、最先端の地球科学により解明することにしましょう。


陸奥国府を襲った貞観年津波(じょうがん)
 3代実録(日本紀略、類聚国史171)の貞観11年5月26日(西暦869年7月13日)の記録に、 次の注目すべき災害の発生が記されています。「陸奥国地大震動。流光如晝隠映。 頃之。人民叫呼。伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。 城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顛覆。不知其数。海嘯哮吼。聲似雷霆。驚濤涌潮。 泝徊漲長。忽至城下。去海数千百里。浩々不辧其涯俟矣。原野道路。惣為滄溟。 乗船不湟。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。」
 内容は、光を伴った鳴動と共に大地震が起き、 次いで押し寄せた津波は平野の奥深くまで侵入して陸奥国府の城下まで達し、 1000名を越す犠牲者が出た、と解読されます。
 この事件より120年前の天平21年(西暦749年)春、 今の小田郡湧谷で黄金が多量に出土し、辺境とされた陸奥は時の権力にとり一躍最重要の地域となりました。 以来この地では、黄金を求めた朝廷と先住民との間に軋轢が増し、 やがて抗争へと発展していきました。策謀と遺恨が対峙して各地で世情の不安が募るなか、 仙台湾の沖で発生した地震津波が襲来したのです。当時の朝廷が受けた衝撃の大きさは、 この災害の詳細な記録からも伺えます。
 被災した国府はどこにあったのでしょうか。貞観の地震津波に関する言い伝えや逸話などを各地で見聞しますが、 その実体についての信頼に足る歴史的記述は意外に希です。 正史の記録にある城下を陸奥多賀国府の館と読みとれるものの、その地理的位置に関しては諸説があります。 これまで主流とされてきた現在の多賀城市とする説に対して、 多くの歴史的記述を背景として異論を侍した渡邊偉夫氏は、 岩沼の「武隈の館」をその場所とする解釈を提唱しています。
 現在ではそれぞれ仙台平野の北部と南部に位置しており、 いずれにしても1100年ほど前に仙台平野に津波が押し寄せたことに変わりはありません。 平野が氾濫して青海原が出現したとする記述は、膨大な量の海水の溯上により仙台平野が 広範囲に水没した様子を暗示しています。
 この津波災害に関わる伝承・記録は、東北地方から房総半島にかけての太平洋沿岸の広い 範囲に及んでおり、知られ得る限り最大級であったと考えられます。東北日本で近代的観測 が始まって以来、最大級の津波の場合で、海岸より2qに満たない海水の陸上溯上距離です。 歴史資料が示す平野の水没は、貞観津波が常識を越えてはるか内陸部まで溯上したことを示唆します。 貞観の津波は、説明の及ばない自然現象なのでしょうか。
 海岸平野では急速な市街化が進み、海岸域にまで開発が及んでいます。 こうした状況にあって未曾有の津波襲来が予想されるならば、我々はその時期と規模を理解することが 急務であると認識しなければなりません。貞観津波の解明は、破局的自然現象としての津波の科学的理解 に貢献するのみならず、地域の防災上極めて重要となります。


津波災害の痕跡
 北と南から流下する北上川・阿武隈川と奥羽脊梁山脈に起源する数条の河川による埋積作用によって、 仙台平野は作られました。良く知られていますように、伊達政宗の仙台開府以来、 平野の後背湿地をひたすら排水することにより、現在の広大な耕地が開拓されました。 記述にあるように仙台平野に貞観の津波が押し寄せていれば、年代論的に、 耕地の下に津波の溯上が痕跡として残されていることになります。
 この期待を持って発掘を試みたところ、厚さ数pの砂の層が仙台平野の広範囲にわたって分布 している事実が明らかにされました。様々な地球科学的分析により、砂は津波によって運ばれ堆積 したと結論されました。地層に含まれる木片の放射性炭素年代は、砂層の堆積年代が貞観の時代を 示唆しています。す同様の砂層が相馬市でも発見され、津波堆積層の広がりから正史の記録に誇張 はないと判断され、津波は仙台平野を水浸しにしたのは事実のようです。
 最近、多賀城市埋蔵文化財調査センターにより、市川橋遺跡から9世紀後葉の大規模な津波災害 の跡が発掘されたと報じられました。この発見により、多賀の国府城下に貞観の津波が押し寄せて 大きな被害が発生した事実が、明らかとなりました。歴史上の津波災害の実態が学際的な研究を通 して解明される事例を、貞観の事件にみることができました。

津波災害の再来
 津波発生の理工学的解析を今村文彦災害制御研究センター教授と共同で試み、貞観津波の数値的復元に成功しました。 これにより、仙台平野の海岸で最大で9mに達する到達波が、7・8分間隔で繰り返し襲来したと推定されました。 相馬市の海岸には更に規模の大きな津波が襲来したようです。将来予測は、科学の最大目的の1つです。 大きな津波が仙台湾沖で将来発生する可能性があるとして、 その時期は何時頃でしょうか。再来予測を可能にする科学的根拠を再び地質学に求めることができます。
 仙台平野の表層堆積物中に厚さ数pの砂層が3層確認され、1番上位は貞観の津波堆積物です。 他のいずれも、同様の起源を有し、津波の堆積物です。放射性炭素を用いて年代を測定したところ、 過去3000年間に3度、津波が溯上したと試算されました。これらのうち先史時代と推定される2つの津波は、 堆積物分布域の広がりから、規模が貞観津波に匹敵すると推察されます。
津波堆積物の周期性と堆積物年代測定結果から、津波による海水の溯上が800年から1100年に1度発生していると 推定されました。貞観津波の襲来から既に1100年余の時が経ており、津波による堆積作用の周期性を考慮するならば、 仙台湾沖で巨大な津波が発生する可能性が懸念されます。
 伝承や文献記録の内容が全て真実であるとは限りません。しかしながら、1100年余の時を経て語り継がれた 仙台平員長野での災害の発生は、幸運にも、津波の科学的研究を通してその正当性が実証されました。こうした 破壊的な災害には、数世代を経ても、あるいは遭遇しないかもしれません。
 しかし、海岸域の開発が急速に進みつつある現在、津波災害への憂いを常に自覚しなくてはなりません。 歴史上の事件と同様、津波の災害も繰り返すのです。





みのうらこうじ
1949 年生まれ
現職:東北大学大学院理学研究科教授
国 際バイカル湖掘削計画研究企画委員長
専門:地質学および古生物学