脳の病気を治す薬を創るために

寺崎哲也=文
text by Tetsuya Terasaki

□脳の監視網・血液脳関門の働き
年を重ねると頭が呆けてくる病気(痴呆症)など、脳の病気を治す薬は、世界中の人々が必要としています。 脳科学の時代が幕開けを迎えただけに、脳の病気の原因はこれからどんどん明らかになるでしょう。しかし、脳の病気を治す薬を創ろうとした時、大きな困難が待ち受けているかもしれません。脳は、「血液脳関門」と呼ばれる監視網によって守られています。この監視網が、薬を簡単に通してくれそうもないからです。この監視網のくわしいしくみは、まだ知られていません。偶然、監視網を通過する薬が、見つかることはあります。しかし、それでは脳の病気を治す薬はいつになったら生まれてくるか、心配です。脳を守る監視網のしくみを研究し、監視網を逃れる方法を発見することは、21世紀の薬づくりにおいて大切なことです。


細胞をおおう魔法のフィルム・細胞膜
 私たちの身体は、70兆個もの細胞からできています。一つ一つの細胞は、厚さがわずか5ナノメーター(1ナノメーターは100万分の1ミリメーター)の細胞膜と呼ばれる、とても薄いフィルムで外界と隔てられています。こんなに薄い膜ですから、どんな物でも自由に通過できると考えそうです。しかし、実際は、限られた物質だけを通過させることができる「魔法のフィルム」のようなものです。
 食事に含まれる栄養成分や飲んだ薬が、この細胞膜を通過できるかどうか?それは、栄養成分や薬が身体の中を移動する道順を決める大切な鍵です。いい薬をなかなか創ることができない理由の一つに、この細胞膜を自由に通過する薬を創ることが難しいことが挙げられます。

細胞膜が持つトランスポーター(特定のものだけ通すトンネル)
 細胞膜は脂質とタンパク質でできています。細胞膜が特定の物質だけを通すことができる秘密は、この細胞膜のタンパク質の働きによります。臓器によって異なりますが、細胞膜のタンパク質には、細胞の外側の小さな分子を細胞の内側へ取りこむ働きをするものと、逆に、細胞の内側の小さな分子を外側へくみ出す働きをするものがあります。この働きを持ったタンパク質は、約500〜1,500のアミノ酸でできていて、6〜12回折り畳まれ、普通の顕微鏡では見えない小さいトンネルを作っています。特定の物(分子)だけが、細胞膜を通過できる秘密は、このトンネルにあります。専門家は、このトンネルのことを「トランスポーター(輸送担体)」と呼んでいます。

薬の道順は、トランスポーターが決定
 細胞膜が持っているトンネル(トランスポーター)は、臓器によって働きが違います。しかし、どんなタンパク質でできているのか、どうして特定の物質だけを通すことができるのか、はっきりわかっていません。薬が、細胞の中に入るには、(1)細胞膜のトランスポーターが、薬を通すことができる、(2)細胞膜のもう一つの成分である油(脂質)に、薬が溶け込んで細胞の中へ入ることができる、このどちらかです。つまり、油に溶けやすい薬を作れば、どんな細胞膜でも通過させることができます。でも、そんな薬をどうやって水に溶かしたらいいのでしょうか?水に溶けないような薬は、胃や小腸から吸収されません。また、注射もできません。薬を創ることが難しい理由の一つは、ここにあります。
 細胞膜のトランスポーターは、身体の中の薬の道順を決定する大切な働きをしています。病気の細胞だけが持っているトランスポーターを見つけ、これを通る薬を創れば、副作用の心配もいらないわけです。残念ですが、薬の科学が、そこまで進歩するにはもう少し時間がかかるかもしれません。

脳への道順に待ち受ける監視網
 今から100年以上も昔、エールリッヒという病理学者が動物の血管に色素を注射したところ、脳だけが色素に染まらないことに気がつきました。脳には、有害物質を通過させない監視網があることを発見したのです。長い間、この監視網が脳のどこにあるのか、意見が分かれていました。多くの科学者の努力が実り、この監視網の働きは脳の血管が担っていることがわかったのです。専門家は、この監視網を「血液脳関門」と呼んでいます。
 脳の血管が監視網の役割を果している秘密の一つは、その特殊な形にあります。脳の血管の細胞は、細胞同士がすき間のないほどピッタリくっついています。そのため、血液中の栄養成分や薬は、血管のすき間を通り抜けて脳内へ入ることはできません。つまり、脳の血管の細胞膜を通る薬を創らない限り、薬は脳で効かないわけです。脳の病気を治す薬を創ることが、とても難しい理由の一つは、これです。脳の血管の細胞膜のトランスポーターが、薬を脳の中へ運ぶかどうかの鍵を握っていることになります。

有害物質を細胞外へ運び出す血液脳関門
 脳の血管の細胞膜には、アミノ酸を運ぶトランスポーターが働いています。昨年、やっと、これがどんなタンパク質でできているかわかりました。パーキンソン病という病気の治療にエル・ドーパという薬が使われることがあります。この薬はアミノ酸と似た形をしているため、監視網が間違えて通してしまいます。その結果、脳の中で効くのです。
 また、臓器を移植した後で、拒絶反応を抑える薬としてサイクロスポリンが使われることがあります。これは、水に溶けにくい薬で、脳の血管の細胞膜の脂質によく溶けて簡単に細胞内に入ることができます。しかし、不思議なことに、この薬は脳の中へ運ばれることはほとんどありません。その原因は、脳の血管の細胞膜に、細胞の中の有害物質を細胞の外へ運び出す特別なトランスポーターが働いているからです。

脳の薬を作るには血液脳関門の解明が課題
 脳を守る監視網には、何種類くらいのトランスポーターが働いているのでしょうか?どんな形の薬を創れば、この監視網を逃れることができるのでしょうか?私たちの研究室では、トランスポーターの形と働きに興味を持ち、この疑問に対する答えを見つけようと研究しています。脳の血管の細胞を薬が通過する速さを比べるために、人工的に血液脳関門を作る研究に取り組んでいます。
 病気を治す薬を創るには、約200億円の研究費と約10年の歳月がかかると言われています。病気の原因がわかっても、生まれてきた薬の値段が高過ぎたのでは、それも問題かもしれません。もっと成功率を高くして、そんなにお金がかからない方法を考え出さなくてはならないと思います。
 最近は、ロボットとコンピューターの助けを借りて、薬を創ろうという試みがされています。いい薬がどんどん生まれる時代が来るためには、さらに、研究が必要です。脳の病気を治す薬を創るには、血液脳関門の働きをもっと知る必要があるでしょう。






てらさき てつや
1955年生まれ
現職:東北大学未来科学技術共同研究センター教授
同大学院薬学研究科教授
科学技術振興事業団・戦略的基礎研究推進事業「脳を守る」研究代表者
専門:脳科学、薬科学、ドラッグ・デリバリー